どうしよ

 

 

我慢できなくなってきた。

 

なんだかいろんな感情を言い訳にしてなにもかもできない事実がしんどくて、自分の弱さがじりじりと迫って来る。

 

何かしらの〆切に向かうにつれて、現実逃避からまえまでできていた計画して何かに取り組むことが出来なくなっていった。

徹夜すればいいじゃん!と思ってしまう。

 

乗り越えてしまったから、できたか否かは置いておいて。

変えたいけどなかなか治らない。

 

今回もそう。なんだか苦しい。

 

すらすらと文章が書けない。どうしてだろう。頭の中のモノがすくないのに散らかって、片付ける気持ちが起きない。

 

なにをもやもやしているんだろう、いまわたしはどこにいるんだろう、ぐっすりとねむりたい、頭をからっぽにして沢山遊んでもなにもよくならなかった。

 

どうしたらいいのだろう。

わからない、わからない、できない、こわい、どうしよう、山積みのタスク、できない自分、やりたくない自分、早くやらなきゃとおもう自分、みんなが一斉に声をあげている。目をそらして携帯を見続ける。

 

バカなのかな?と思う。でもやめられない。思考が止まっている。

進まない。思い付きでこなすだけこなして、しばらく答えのあるいわれたことしかやりたくない。

 

文字を言われた通りに正しく打ち込むことをしたい。

 

お金もほしい、かっこよく生きたい、自立したい、だけど出来ることってない。

 

どうしよう、どうしよう、どうしよう。

 

 

 

いつも、誰に向けてでもなく、わがままな自己の気持ちをただ吐露するだけのブログで記事を書いてきた。

誰のためでもなく自分のために、すなわち読まれるための文章ではなく、ただのマスターベーションとして文章を書いてきた。

 

最近はそれが氾濫して、それをよしとする感じがあるところも正直あると思う。

 

わがままな、甘ったれた、子供じみた自分の主張。

 

恥ずかしくなってくるが、そうしなければ処理できない自分の気持ちもあるので、嫌ならば見ないで、のスタンスでご容赦いただきたい。

 

たしかに誰かに読まれることも多少は考えている。それはインターネットの海に投げ込んだ全世界に公開されたブログだから。決して資源ごみとなるしかないチラシの裏や、鍵付きの誰にも読まれることなく燃やされるノートに書いているわけではないから。

 

最近noteも使っている。noteはなんのために使っているのかというと、自分のツイッターhttps://twitter.com/___mmmxr_)の下書きがたまりすぎてそれをマガジンとしてまとめている。

 

これも実に甘ったれた文章で嫌なのだが、こうしなければパンクしていた、としか言いようがない。

 

多少読まれる可能性があるからこそ、気持ちを相対的に言葉にすることが出来る。

だれになんと言われようと、鼻で笑われようと、こうしなければ保つことが難しかったから、開きなおっておきたい。

 

これを偶然みた、知り合いたちには赤面するしかないが、それも覚悟してはいる。

 

プライドだらけで、つまらん自己主張ばかり、わがままばかり、いいところなんて一つもないんじゃないか(そんなことはないよ)の繰り返し。

結局(そんなことはないよ)がほしいんじゃないか、といわれても仕方がない。

 

いまは鍛錬の時期だと思って。やっと鉄が熱いと思って、打たれるだけ打たれたい。

 

あれ、何を言いたかったんだ。こういうところに、真理はあるんじゃないか。

https://note.mu/mmmxr

namly

人間のレベル

 

 

ずっと迷走していた。2018年、なんで今このタスクに追われているんだろう、ということが分からず、というか、考える間もなく過ぎた。

 

なぜ今これをやっているのか、これが何のためにあるのか、分からないまま作業をすることができなかったわたしが、考える間も、立ち止まる間もないと感じ、焦りを感じながらただこなした。いや、こなせていない。

 

全部中途半端に提示して終わったものばかりで、情けないくらい毎回笑いながら非難に耐えた。

 

本当は笑ってなんかいられない。なぜ自分が今笑ってるのかわからない。

 

だけど、その場を乗り越えるために、非難の声を笑って流し、家に帰ってひとり、泣きながら、凹みながら耐えた。

 

反省している暇なんてあんまりなかった。反省とは時間がないとできない。

 

反省する間もなく次に、次に、と走り続けないといけない。

 

例えるなら、マラソンだと思う。

ラソンの距離、コースの難易度をあまり理解せず、走り出したときにはもう遅く、あと一歩で終わる、の状態で走り続けている。

もうとっくに息切れしている。

 

過呼吸で、水分不足で、筋肉もすたぼろ、意識も朦朧としている、その瞬間で生きている。

 

でも、これは意味のないランではないということは分かる。

毎回毎回、自分より上の人たちに指導をうけながら、成長の機会を期待の眼を向けてもらいながらもらっている。その機会をいろんな理由をこじつけて不意にしているのは自分だということは、自分がいたいほど分かっている。

 

大学4年生じゃなければきっとちがっていたのかな、と思う。

 

いま、やらねばならぬこと、決めねばならぬこと、たくさんありすぎて、訳が分からない。

人生、こう生きなければならないというルートはない、だけど、あらかじめ引かれたレールを踏み外す勇気もないのだ。

 

プライドも一丁前に高々と築いてしまって、これを守るためにひび過ごしている。

 

他人に指導を受けるとき、アドバイスを受けるとき、なにか言われた時、どう反応したらいいかがわからない。

 

人といるとき、人としゃべる時に思考が動かない、最近それを知ってから、人からの話をキャパオーバーゆえに聞けなくなっていた。

 

誠実に見えないかもしれない、だけど、ちゃんと一人の時に落とし込んでいる。

 

そのせいで、なめられていた、バカにされていた、とか、怒りを後から覚えて困ることもよくあるけど、その能力がない自分には、どうしようもない。

 

人と生きて、向き合っていくこと、それはとても高度なレベルにいないとできないのかもしれない。

 

namly

一番つらいのは

 

わたしはなにも大切にできない。

 

いつも周りが失ったものやもういない人に想いを馳せ、愛を語っていると、わたしもそれが好きなのに、なんだか入り込めなさを感じて、居心地が悪い。

 

もう死んだバンドマンの命日だ。わたしはリアルタイムで過ごした世代ではないけど、想いを馳せるみなに共感しきることができない。

もともとないものだからだろうか。

祖母が亡くなったときもそうだった。

 

祖母がいない世界は、わたしになにも変化をもたらさなかった。

祖母がいない世界は淋しいが、限りなく日常だ。

葬式では死ぬほど泣いたが、祖母が死ぬことで、人間についてたくさん考えた。

 

多分人は、甘えていて、そこまで実際好きじゃないとか、やんややんやとわたしを否定すると思う。自分が否定された気がするから相手を否定するのはなんか違うんじゃないか?と思ってしまう。

 

わたしの行為や発する言葉に愛がない、誠実じゃないものを感じるにしても、これがわたしだし、どこを搾取しても、どこを大事にしても本来なんら恥じる必要はないのだ。なぜ、まわりの目を気にしなければならないのだろう。いつもよくわからない。

わたしの好きなものの愛し方くらい、やんやと口を出されたくない。

 

反撃したいけど、その人にとってわたしの愛し方は目障りなんだろう。

 

わたしは確かに大事に愛さない。

小さなものもなんでもそうなのだ。酷使して、ポイ捨てしてしまう。

大事にできない。思い入れができない。

なんでもかんでも、それがわたしに何をもたらすのかが大事になるのだ。

その人が作った作品、その人と過ごした思い出、その人と一緒にいた時の独特な感情。それが何より大事なのだ。そのもたらしてくれたものは、わたしの養分になる。

 

人も、モノも、正直失って困るものなんて、実際たいしてなくて、失いたくはないけど失う時はこちらではどうにもならないと分かっているのだ。

 

手に入れるときは優柔不断だが、失う時はあっさりだ。失う時の抵抗ほど無駄な行為はないから。

 

大事にしたいし、思い入れをもって何かを愛したい。

だけど、やり方が分からない。出会っていないんだよって、見下すの、やめてくれよ。憐れむの、やめてくれよ、全然わからない。分かりたいようで、全く分からない。

 

こんなわたしも、つらいと思う時、譲れないものくらいある。多分それはこの世で一番くだらないかもしれない。

プライドだ、自分の。自分が一番大事。自分の感情、作り上げたなにか、絶対に否定されたくない。

 

namly

 

白と黒、時たま、?

 

 

毎日毎日、一日が始まり、終わり、なんとなく、なあなあと、だらだらと過ぎてゆく。

 

何もないと思っていた平穏な日々は、なんだかんだで何かある。

 

書くことを止めると、次に書くときに氾濫した川のように自分勝手な文章で、甘えた剛速球のような記事ができてしまう。

 

書いているほうも余裕がないからきついと思う。

 

書くことはやめてはならないライフワークなのかもしれない。

どんなに忙しくても、書くことは楽しい。文章を書くことが下手だと言われるし、たまに本当にめちゃくちゃな文章を書いたり、だれもわからない自分勝手な文章もできる。

 

他人に理解してもらうための手立てはしたくなくて手は抜きまくりで、仕上げたから!と思っちゃう。

 

この前友達と、手料理をふるまってくれた友達がお皿や盛り付けを一切気にしないでもてなしてきた、という話にまぁよく笑ったけれど、わたしは文章でよくそれをしてしまう。いや、多分文章意外だとおもう。

 

諦められていたんだな、と思う。ただ、それをわざわざ伝えて来るということは、どうしても目障りなんだな、と思う。許せないんだと思う、自分が許されてこなかったから。

 

わたしだってなおせるならいいけど、人間はすぐになおらない。わからない。本気にならない。開き直っているというか、じゃあどうやったら納得してくれる?と思っている。

じゃあお互い見えないところに行った方がいいよね、と思う。

 

自分を作って来たものが終わりかけのジェンガのよう。

 

悲しいかな、これが現実。

 

最近そうなるのがただの勉強不足なんだと気づいてきた。

 

考えていることに対して知識の武装がないからいざという時に使えない。

本を読もう、大昔の人たちの、大昔の言葉にふれないと、そう思った。

 

口先だけではだめだとわかっている。

 

いつでも自分のふがいなさと戦っている。涙が出そう。

 

守ってくれるひとをもとめながら、いざ守られると余計なお世話とかみついてしまう、所詮わたしは逆張り女。

 

namly

どろっと

 

 

なんにもやりたくない、そう思っていたらせっかくのお休みだったのになにもやらないまま一日が終わっていく。こんなに何もやらないんだったら、好きなこと思いっきりすればよかった、と毎回思うが、学べないね。

 

毎日毎日あほみたいな生活を送っている。

人生で一番低いところを一度味わったら、全てがどうでもよくなってきた。

 

平穏かもしれない。

たまに、予定を見合わせて顔が青ざめるというか、血の気が引いていくのを感じるときがある。

だからといって、わたしはだいたいのことは頑張るしかないな、と思ってやるタイプだから、蒼ざめるということは相当なのだ。本当に死んでしまう、と思うときだ。

 

そんな気持ち、大学生になってからしか感じたことがないし、そもそも大学生になってからと言っても去年ごろから感じるが、今年に入ってからもう2回は感じている。

 

発表が月に4回あったとき、一つ一つの大枠から自分のペースで作りたいのに、話を聞いてからのハイペースさ。

事前に決まっていても間に合わない。前倒しにできない。(前に〆切があるから)

こんなに急がないといけないのか、こんなに厳しくしないといいものってできないのか。と葛藤する。

 

いつも自分のペースが乱されることに一番のストレスを感じるぶん、ここ半年はずっとペースを乱されていて辛い。

 

必死に発表終わってのみの席で説教されて、プライドというか、なんというか。

わかるんだけど、わたし、そんなにうまくできないよ。

 

うまくできないからこそ、辞めるしかないのかな、と思うけど、わからない。

前いた部活をやめるときは、このままいたらダメだ!という確信があったからやめられたけど、これはわからない。

辞めちゃいけないつらいと、やめなければならないつらい。

できないとおもうのに、逃げることになるのだろうか。

 

出来ることだけを頑張るって駄目なんだろうか。

なにが正解なのか、自分の生き方、精神の持ち方が社会や身近な人と合わなくて苦しい。

友達は置いておいて、なんかしっくりこない。

 

この数か月、頑張って力抜いて怒られて怒って葛藤して我慢して苦しくて、泣いて、泣いて。楽しいこともあったけど、苦しいことだらけだ。

 

人生の中で一番つらかったのはいつですか、と聞かれれば今でしかない。

これからさき、これと同レベルで辛いことが日常になるくらいなら死んだほうがマシ。

 

生きている意味なんて、幸福を味わうためであって、不幸はスパイスでしかない。

唐辛子だけ食ってるやつなんてくるってる。

 

あー、なにもかもやる気が出ない。

大事にされたい。大事にしたい。

びちゃびちゃになスケベな映画でも涼しい部屋でみたい。

クーラーのきいた部屋で暖めあいたい。

 

自分はダメな人間だけど、みんなダメなところぐらいある。

傲慢でいいとおもうし、人に合わせまくっていたら疲れてしまう。

 

周りでなにか起こっている、わからない、わからない。

 

夜はいつかあけるかもしれないけど、闇からはいつ抜け出せるんだろう。

懐中電灯の電池、誰か。

 

namly

たまたま、必死。

 

本当のほんとうに、マジのマジに忙しかった。端的に、死ぬかと思った。

なにもしたくない、進まないから、何も終わっていないが久しぶりに思いつくだけの言葉で記事を書こうと思った。

前回の記事を見ると、ずいぶんつらそうだが、それどころではなかった。

 

空虚な時間が多くなればそれもそれで辛いが、詰まっていても辛くなるのだ。

大人というものは、その幅を利かせてコントロールできるということなのではないだろうか?

 

友人関係、恋愛?関係といった、人間の問題や、未だかつて進路に失敗したことがないわたしが初めてぶちあたる就職活動、集大成になる卒業論文、手は抜きたくない研究会。なにもかも、必死で駆け抜けていた。気がついたら1か月たっているくらいには。

しかし、何もうまくいかなかった。

 

二兎追うものは一兎も得ず、まさにこれなのだ。

分かっている、しかし、確実に一兎をとるために、他を捨てることなんてできないのだ。本当に、本当に、どれも大事で、どれも絶対に捨てちゃいけないものなのだ。

 

わがままなのだろうか?すべてに全力を尽くそうというのは。

バカなのだろうか?信念と目的を信じて学問に就職活動を疎かにして打ち込むことは。

 

バカにするなという目線や話し方が強まりすぎて、気付いたら面接がどこも落ちていた。いつか言われた生意気そうという一言がよぎる。

言うこと聞かなそうな若者、社会にはいらないのだろうか?それならコンピュータしか存在意義はないのではないか?

社会の言うこと、くだらない大人の言うこと、絶対にきかないし、心底バカにして過ごしてやる。自分の信念は曲げたくないといっていたら、やっぱりどこも受け入れてくれなかった。周囲の大人はわがままと言う。

自分の信念を曲げて、好きでもない人と好きでもなことに体力と時間を使っていくことが、大人で、生きていくということで、折り合いをつけるということで、、

こんなにITが進化しているのに、人間、いらなくない?と思う不条理さでいっぱい。

 

そういうことはいままでわがままに育ってきたんだね、と言われても。

自由気ままに成長させてくれましたよ、家族に感謝、周囲に感謝。でも、求められた感謝だけはしない。それはあなたの自己満足じゃん。こう育てたのは、あなたの自己責任。

なんだか受け入れてもらいたい!というわがままばかりになってしまった。わめいてわめいて、バカみたいだ。

 

数日前まで、勉強も、就活も、人間関係もすべてだめで、この世の終わりかと思った。人生どん底とは、まさにこのことなのかもしれないと思った。

なんでわたしが怒られるんだ?手放すんだ?

受け入れられないんだ?できないんだ?

疑問ばかりで焦っていた。悲しかった。

深夜にベッドに横になって、走馬灯のように自分の失敗と失敗予想図が流れ、不安と絶望で涙が止まらないという経験をした。涙なんて普段流れないのに、1時間くらい涙が止まらず、泣き続けた。

発表終わりに情けなさで涙が止まらなくなった。頑張り続けることにはじめて自信が持てなくなっていた。数日間、自分の涙腺がどこなのか、さっぱりわからなかった。

自分でやると決めたことは、自分の好きなことだから、絶対に放棄しないし、絶対にやり遂げてきたし、成功してきたが、自分の好きなことを本気で取り組んで、本気で打ちのめされたのは初めての事だった。それが×3くらいでくるから、さすがに心にも身体にも応えた。

一週間食事をまともにとらなかったせいで寝てばかりの生活をしているのにクマができたり、肌が沢山あれた。流し込んでいたビールのほうが多かった。

頑張っても帰って来るのは頑張った部分以前の自分のミスだった。

ふらふらとスーツをきていても喋りすぎてしまうことが多かった。

それでも、それでも、わたしはなしえないといけない、その気持ちだけで必死に涙をぬぐって過ごしていた。

 

もちろんその間一人だったわけじゃない。

なにもかも夢中になって、精神的な余裕があったころにはみえなかった、大切にすべき周囲の人たちが支えてくれていた。

こんなに悩んでいることを周囲に話したことは人生でなかったと思う。

だいたい本当に悩んでいることは周囲に言いにくい。

 

わたしが初めて悩んでいることを打ち明けたら友人(補足すると、わたしたちは普段悩み事を共有しないしめそめそしない)は聴いてくれただけじゃなくて、味方になってくれたし、わたしの落ち度も指摘してくれた。そして、なにも言わずに、「そろそろ会いたくない?」といって、わたしの自宅に来た。

押しつけがましくなかった。わたしも無理に御礼ばっかり言わなくて済んだ。

いい意味で無駄な礼儀をせがまれない関係は本当に理想だと思う。

 

突然呼びつけた人に話を聞いてもらったり、他にも近しい友人に多く聞いてもらった。

先生は頑張っていることは分かっていてくれた。本気で変なこと言うよねと言う嘲笑つきで。

とはいえ、沢山の人がわたしの味方でいてくれた。それがわかったことが本当にうれしくて、こんなに人はあたたかいんだと感じたことはなかった。

血のつながりとか、そういうことじゃなくて、自分で切り開いたコミュニティが、自分の味方でいてくれるということは、なかなか普段実感できない。

ちゃんと元気な時にお礼をしたい。押しつけがましくない方法で。

わたしは家族も大事だと思っているけど、家族が大事にしなきゃいけない理由1000パーセントである理由はどこにもないと思っている。

家族のことは好きだ。だけど、束縛はよくない。それぞれの個人、家族こそたまたま。

かっこいいのだ、わたしの周りの人たちは。大丈夫!?駆けつけるね、一杯泣きな?とか、自己啓発本にかいてあるようなことや、100の言葉系のことは一言も言わない。そこに本質を見出さないわたしの周りの人たちは、わたしの財産だ。

 

たぶん今はとてもつらいけど、自分にとって、ぜったいに必要な苦労だと思う。

だからこそ逃げ出したくない。ただ少し、休みは欲しいが。

 

この1か月の間にあったことを表面的な感情だけで振り返っても、全然伝えきれない。

なんていってもこの1か月は怒涛だったから。

やはりどこかでおかしい文章になっているだろう。これがあと1か月続く。

死んでしまわないように。

 

書きすぎてしまった。あほか。

おやすみなさい

 

namr